”野性”を取り戻す授業

【授業で大事にするもの】
私はこれまでに大学の教養科目として「水環境論」,「環境生態学」,「流域環境論」などの講義を担当してきた.振り返ってみると,いつも大事にしてきたことは,「実感を持ってもらう」ことであった.あまり専門的なことは語らない.なぜなら,自然科学を学ぶための下地を持っていない学生が圧倒的に多いからである.そんなところにいきなり専門的な話をしても,興味が湧くはずがない.まずは,自然や環境というものが,いかに身近なものであり,自分たちに関わっているか,ということを色んな視点からしつこく解説する.

【小さな自然体験に訴える】
自然体験はたぶん重要である.でも,限られた授業で,たくさんの受講生を相手にして,良質な自然体験をさせるのはなかなか難しい.だから私は,多くの学生たちが経験してきたであろう,小さな自然体験に訴えかける.それは,家族とドライブしていて車窓から眺めた山の風景でもいい.ちょっと車から降りて見物した滝でもいい.登下校中に毎日渡ったドブ川でも清流でもいい.名水と呼ばれる湧き水を直に飲んだことがあるなら,かなり上等な自然体験といえる.それらの体験と,川,地形,流域,生物,環境,災害,水資源,産業などを関連付けて話を展開する.覚えろとは一切言わない.そもそも覚えるものではない.感じる段階なのである.

【教える価値】
受講生のほとんどは研究者にはならない.それでも教える価値はある.なぜなら,自然や環境をわが身のものと実感できる素養は,人生を豊かにすると疑わないからである.目に映るすべての景色がわが身のものとして胸に飛び込んでくるのだから,面白くないはずがない.自然を見る目が養われれば,同時に災害や獣害リスク,水問題を知ることにもなる.つまり,賢く生活する知恵になる.

【人と自然】
自然をわが身のものと実感することは,本来,特別なことではない.人類の歴史は約700万年と言われるが,その大半を野生生物として生きてきた人類は自然そのものだった.そして,周りの自然・環境に生かされてきた.脳を発達させた我々ホモ・サピエンスは,それを実感し,自然に畏敬の念の抱きながら生きてきた.自然はあえて学ぶものではなかったはずだ.

【自然からの乖離】
現代の生活は自然から乖離している.おそらく,約1万年前に始まった農耕が,人類の野生生物からの脱却を促進した.農耕による定住生活は,周辺環境を改変するための土木技術を発展させ,集団を統制するための社会システムを発達させたに違いない.そして今,水場を探さなくても水が飲めて,狩りをしなくても肉が食べられる.まして,獣皮や植物を衣服に仕立てる必要もない.そんな,「生存の一次作業」ともいうべき根源的な行動を省略した生活を,現代人は送っている.その結果,我々は野生生物とは違う,山や川といった自然から独立した存在であるかのような錯覚に陥っている.

【野性を取り戻す】
私の授業は,その錯覚を取り払い,自然・環境と自分たちとのつながりを取り戻そうと試みる.それは「”野性”を取り戻す授業」なのかもしれない.

多くの人が自分と自然・環境とのつながり―野性―を取り戻せば,自然環境の保全はわが身を守るための単なるマナーとなり,そうなって初めて,持続的な社会も見えてくるというものだろう.それについては,また今度考えてみたい.