以下,2023年11月8日の中部経済新聞に掲載された私の寄稿です.岐阜大学のオープンカレッジという連載枠に掲載されました.


人類の歴史は約700万年と言われている.そのほとんどの期間,人類は弱肉強食の自然の中で,生きるために水と食料の探索を繰り返し,ときに無慈悲な死にも直面する野生生物であった.農耕が始まったのは約1万年前.定住生活がはじまり,土地や水の利用のために自然を改変する技術や,統制を図るための社会構造も発達し,生き方は一変した.

農耕生活に端を発する集団統制と土木技術の飽くなき発展は,現在の高度な社会システムの構築へとつながった.高度な社会システムは生活の利便性や安全性を高めてきた一方,人と自然を乖離させてもきた.水場を探さなくても水が飲める.狩りをしなくても肉が手に入る.寒さと暑さはエアコンで乗り切り,獣皮や植物を衣服に仕立てる必要もない.現代人は,野生生活では当たり前であった「生存の一次作業」ともいうべき,699万年間の習慣を省略した生活を送っている.

近年,人類社会の持続的な発展を目指すSDGsが隆盛となり,人の生きる基盤である自然環境や生態系保全の重要性も盛んに叫ばれるようになった.しかし,CSR(企業の社会的責任)を求められる企業は別として,個人レベルではSDGsも環境・生態系保全も「どこか他人事」である.それは当然だと私は思う.社会システムによって生存の一次作業が省略された現代人にとって,自然環境や生態系が生活の基盤であるという実感はなく,ましてその保全にまで心をいたすことなどできない.理念のまえに,自然と自分のつながりを実感することが必要なのだと思う.

そのためには「流域の視点」を持つことが大事だと私は思っている.流域は,私たちの足元から,降った雨の行先を分ける山の分水嶺まで広がる領域である.川岸に立って,そこに暮らす魚の生息環境を考えるとき,私は川の源たる山々や,木々や,大地(地質)や,人による土地利用に思いを巡らす.なぜなら,それら流域内のすべての影響を受けた結果として目の前の川があり,そこに魚たちが暮らしているからである.

人間もまた同じである.私たちが暮らす土地は,川の洪水や土砂崩れなど流域内で過去に生じた自然現象によってできている.だから,土地の成因は災害リスクそのものでもある.私たちが安価に大量に水を使えるのは,流域内に降った雨が川や地下水として流れ下ってくるからである.それによって,私たちは清潔かつ高度な社会生活を営める.極端に言えば,隣の流域に降った雨は,自分のいる流域の災害要因にもならなければ,水資源にもならない.私たちは流域という自然の単位に依存して暮らしている.

自然と自分のつながりを多くの人が感得できれば,自然環境や生態系の保全は理念で強要されるものではなく,単なるマナーとなり,社会のあらゆるレベルに広がることが期待できる.そうなったときはじめて,いくつかの古代文明と同じ轍を踏まない,持続的な社会が見えてくるのではないだろうか.