伊藤圭介(1876)日本産物志~美濃部~.文部省.
伊藤圭介氏によって書かれ,明治9年に文部省から発刊された「日本産物志・美濃部」では,美濃国の様々な産物が紹介されています.その1つに「アユ」があり,当時の一般的知識や見聞に基づき,長良川のアユの生態や鵜飼漁などが描写されています.

江戸時代が終焉を迎えて間もない当時のアユの知識とは,どのようなものだったのか?とても気になったので古本屋で入手しました.以下は,私なりの現代語訳です.理解できなかった箇所は飛ばすなど,100%正確とは言えませんが,各文の内容に致命的ではないと思うので,そのまま掲載しちゃいます.なお,冒頭にある「アユの呼称」の出典については,別記事で詳しく紹介しました!

<以下,現代語訳>

アユ
細鱗魚(日本紀),年魚(賦役令,延喜式),鮎魚(和名抄),香魚(雨航雑録)

アユは,武蔵国の多摩川をはじめ,他の諸国でもたくさん獲れる.美濃国の長良川のアユは特に美味であり,他地域に勝る.ちなみに,長良川の上流部は郡上川と呼ばれており,金華山の麓に至って長良川または金華水と呼ばれる.秋風が吹く頃,人々は小舟を出してアユを獲る.アユの頭は小さく,口に細かな歯がある.鱗も細かく淡黄色で,腹は白くて光沢があり,尾鰭は黄色で,体長は7~8寸(約21~24cm)ほどである.オスは白子を,メスは卵をもつ.粟のように細かな卵でメスの腹は満たされる.産み出された卵は石や藻に付着する.孵化した仔魚は川を下るが,成長してまた川を遡り,産卵する.9月には最も大きく,香りよく,美しくなる.卵を持って川を下るようになると,体は黒ずみ痩せて,頭骨が太く,脂はなくなる.これを「サヒアユ」とか「オチアユ」といい,味はかなり落ちる.稀に,地元で「アイキョウ」と呼ばれる越年個体もいる.

網でアユを漁獲する人が多いが,鵜を使って獲る人は最も優れていると評される.長良川の傍らに鵜匠七家があり,それぞれ通常12頭の鵜を飼っている.鵜には数種あるが,海産の「ゴマガラ」が良いとされる.尾張国知多郡の南にある篠島で捕獲する.鵜を捕獲するには,木製の鵜を使っておびき寄せる.1羽獲れたら,木製の鵜と交換して,また次を獲る.捕獲した鵜は長良川に運ばれ,鵜匠が若くて体格の良い鵜を選別する.高齢や小型の鵜は適さない.また,人に慣れる鵜も稀である.毎年5月から9月は鵜飼い漁のシーズンである.夜,7艘の鵜飼船を浮かべ,急流を下る.焚いた篝火は川底を照らし,驚いたアユを鵜が捕まえる.鵜の首には小さな輪を通しており,小さな魚は飲み込めるが,アユは飲み込めないようになっている.鵜匠1名は鵜12頭を操り,船首に立って,鵜が魚を捕えると綱を引いて鵜を船に乗せ,魚を吐き出させる.乱れることなく12本の綱を巧みに操る様子は熟練の技である.鵜は1度に100尾あまりのアユを食べることがあり,130目(487.5g)ほどの大きなアユを56尾も喉に溜めていたこともあるという(※1).鵜飼漁は諸国で営まれてはいるが,長良川における鵜飼は壮観で,美味なアユは格別である.金華山の山陰,絶壁の景勝,山あいに明るい月を臨む.

※1 このくだりは,人から聞いた話として書かれているが,かなり大袈裟な記述になっており,何らかのエラーがあったと思われる.130目(487.5g)は30㎝を超える大物(尺鮎)に違いないが,それを56尾も鵜が喉に溜めることは不可能でしょう.「鵜飼船で漁場を1回流すと,鵜1頭あたり56尾の尺鮎が獲れる」くらいのことであれば,昔はあったのかもしれない.